昨日、映画『リトルマーメイド』(字幕)を観てきた。
私は、アニメ版のリトルマーメイドには思い入れがある。キャラクター各々が魅力的だし、音楽が素晴らしいからだ。
また、娘が小さい頃、一緒に何度も繰り返し観ていた懐かしい思い出がある。(娘は性格がアリエルに少し似ている。)
娘に、「YouTubeで弾く曲でリクエストある?」と聞いたら、『パート・オブ・ザ・ワールド』と返ってきたほどだ。
今回の実写版は、主役に黒人女性を起用したことで物議をかもした作品だ。
裏を返せば、外見がイメージに合わなくても主役にしたいほどの素晴らしい声の持ち主だということだろう。
実際に映画館で聴いてみると、それはそれは素晴らしい声だった。声のオリンピックがあったら、金メダル級の歌声だ。
声の美しさ、ピッチ、リズム感、声量など全てにおいてパーフェクトだ。非の打ち所がない。
特に音圧がすごい。これは、筋力に優れた黒人系の人にしか出せない特徴かもしれない。そのパワーに鳥肌が立った。
でも、アニメ版に親しんだ私にとっては、特に看板曲でもある『パート・オブ・ザ・ワールド』が違う気がする。
アリエルのキャラクターは、末っ子で少し甘えん坊、夢見がちで好奇心旺盛だ。つまり、子どもっぽい性格である。
それが、愛する人への情熱や父親からの愛情や仲間達の友情に気付き、大人の女性へと成長していく物語である。
だから、『パート・オブ・ザ・ワールド』を歌う時のアリエルは、世間知らずで、気持ちに不安定さや迷いがある。
良くも悪くも、ハリー・ベイリーの歌は完璧過ぎた。その段階で、すでに自信に満ちた強い声なのである。
アナ雪でも感じたことだが、オリジナルの方が声質が強くてたくましい傾向にある。日本人とは感性が違うのかもしれない。
隠れ家の洞窟でひっそり人間への憧れを歌うというより、コンサート会場で観客に向けて歌っているような感じがする。
つまり、歌い終わった途端、皆が大歓声を上げてスタンディングオベーションをしてしまうような類いの歌い方なのだ。
また、原曲との大きな違いは、最後に近い部分の歌詞(above)のメロディーが順次進行で三度も上がっていく点だ。
そのパワフルなロングトーンの後に、ホイットニー・ヒューストンのような即興的アレンジが付け加えられている。
そのことで、シンプルな素材の良さを味わいたい料理に、余計なソースが加えられてしまったように感じた。
紛れもなく、ハリー・ベイリーは役者でなくボーカリストだ。それゆえ、声の存在感が人魚役を凌いでしまっている。
偶然にも、今朝のテレビ番組『ZIP』で、日本版のアリエル役の豊原江理香さんが同じ曲を歌っていた。
声質も甘く可愛らしくて、繊細さと大胆さが共存しているような歌い方が、アリエルのイメージにピッタリだと思った。
人魚は、魅惑的な声で人を誘うという。番組スタッフの人達が、うっとりと気持ち良さそうな表情になっていた。
ちなみに、豊原さんは、ハーフでお父さんがドミニカ共和国の方なので、顔立ちが華やかで見た目もアリエルに近い。
もちろん、映画の実写版も最後まで飽きることがなかった。ただし、主役の見た目の違和感は最後まで続いた。
私は、以前、オペラ『蝶々夫人』を観たことがある。主役の蝶々夫人を、外国人のオペラ歌手が務めていた。
可憐で小柄で華奢なはずの蝶々夫人は、背が高く骨格がしっかりしているために、着物を着た時に大木のように見えた。
声の美しさやテクニックは素晴らしかったものの、頑丈そうな見た目は蝶々夫人の儚さを表せず、共感がしにくかった。
確かに、オペラやミュージカルでは、容姿よりも声が一番大切な要素であるのは間違いない。
でも、頭の中で余計な混乱や補正をしないで済むような自然なキャスティングの方が、感情移入しやすいように思う。
オペラ『椿姫』を観た時も、ふくよかな体型の椿姫だったので、「日に日に痩せて」と字幕が出てきた時に興ざめした。
ただ、ハリー・ベイリーの力強くて美しい歌声は唯一無二だ。世界中の女の子達に感動と勇気を与えることは確かだ。
そして、それがディズニーの最大の狙いなのかもしれない。
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